肥後菊池家十三代惣領 菊池次郎武重末裔のHPです。
菊池家は、鞠智及び鞠智城に関連する豪族の末裔で、1019年(寛仁3年)の「刀伊の入冠」に際し、大宰府権師藤原隆家と共に奮戦した大宰府官藤原蔵規(政則)の子藤原則隆を始祖として、以来、約1000年の歴史を有しています。




(定紋)   (替紋)
(鷹の羽紋は阿蘇神社、菊水紋は楠正成公との縁を表わします。)

ご挨拶
わが家は、菊池家十二代惣領菊池武時の嫡男菊池次郎武重(菊池家十三代惣領)の子孫と伝えられています。祖先が帰農してからは、家の歴史に特別な関心を持つこともなく、ただ平穏な暮しをしていたようで、菊池家子孫であることも、意図的に隠していたのかも知れません。そのほうが、世間に波風を立てることもありませんから、平穏無事で暮らせたのでしょう。しかし、家に伝わる家例や伝承、遺物、伝統行事などは、代々、家の誇りとして静かに伝えられ、受け継がれ、全く外部に知れることもありませんでした。日清戦争に、近衛兵として出征した曾祖母の兄菊池定介の墓碑には、菊池武重が一家を挙げて南朝に尽くしたことや菊池定介がその子孫であることが刻まれています。このことから、明治時代になって菊池武重の子孫であることを初めて公にしたのかも知れません。それでも、当時、菊池家や菊池武重についての詳しい歴史情報を持っている人は周囲にもなく、九州から遠く離れた地でもあり、特に我が家に関心を持たれることはなかったのでしょう。私は、幼少時から近親者に、菊池家の子孫であることや、家例、伝承を教えられました。しかし、まだ幼く我が家の歴史に関心を持つこともありませんでした。その後も我が家についての教育をいろいろ受けましたが、あまり気にも留めなかったと記憶しています。社会人となっても、日々の仕事に追われ、家の歴史を考える余裕はありませんでした。しかし、時を経て、わが子も社会人となり仕事も落ち着いて参りましたので、ようやく家の歴史を考えるゆとりが生まれました。今では、多くの文献もあり、インターネットでも個別の歴史情報を調べることが可能ですから、我が家の歴史も大まかながら調べることができました。その結果、我が家の伝承に大きな確信を持ちましたので、「祖先への供養」にこのHPを立ち上げた次第です。このままでは、「菊池家も菊池武重も子孫が全く絶えたことになってしまう。」との強い想いもありました。私は浅学非才ですが、さらに菊池家の歴史解明を続けます。
多くの皆様のご協力を、お願い申し上げます。

菊池武重末裔家 当主 菊池 肇

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「体の大柄な家系」
我が家は、代々、体が大きく、大男、大女の家系であったと伝承されています。
現在の親戚も男女とも大柄ですから、やはり伝承の通りです。
ちなみに、私は身長が170cmですから、私は大柄とは言えませんが、、、、。
武重は、体の大きな男であったのかも知れません。

「氏、姓と血縁について」
古来の氏や姓は、同族として祀りごとを行う者同士といった側面があり、必ずしも血族を意味するものではなかったようです。菊池家の祖先が藤原氏末裔を名乗ったのも、血縁があるからではなく藤原一族の勢力圏が祖先にとって必要だったからなのでしょう。
菊池家は長い間、藤原氏の子孫であると伝承され、それが公の真実となっていました。
しかし、最近の研究により、藤原隆家の子に藤原蔵規は存在しないことが明らかになりましたので、自称藤原氏の子孫であったと言うことになります。
私も祖先の歴史を調べるまでは、祖先が藤原氏であると信じていました。
しかし、私の調査でも則隆の父蔵規は藤原隆家の子ではなく、仮の親である烏帽子子であったのだろうと推測するに至りました。
最近は、遺伝子の継続性としての氏や姓と言う感覚がありますので、それからすれば同族ではありませんが、当時の祖先は、前述の血縁関係が無くとも社会的な同族意識を強く持ち藤原氏の子孫であると主張したのでしょう。
菊池を名乗る多くの方にも同様のことが存在するのでは、、、と思います。
たとえば、他家の者が菊池嫡流を追い出して惣領となった時は、菊池を名乗りますがその子孫は遺伝的に菊池家とは無縁なのです。つまり、氏や姓が同じであれば血縁関係があり、遺伝子が同じだと考えるのは早合点だと気付きました。ある地方の菊池氏が、菊池何某の子孫であると言われれば、その地方の菊池氏は、すべてがその子孫であり、同族であるように考えます。また、菊池を名乗る者は、すべてに血縁関係があると考えます。しかし、そのようなことは絶対にあり得ません。
真のルーツは、歴史的な事実の裏付けがなければ得ることができません。

「家紋について」
家紋は、日足紋 ->丸に違い鷹の羽 ->並び鷹の羽へと変わりました。
「蒙古襲来絵詞」に描かれている菊池家の家紋は、「並び鷹の羽」となっていますが、
それをもって当時の菊池家の家紋を「並び鷹の羽」とする根拠にはなりません。この絵は、後年、修正や書き加えのあることが、専門家の研究により明白となっています。菊池家の家紋「丸に違い鷹の羽」(隆直の時より阿蘇神社の神紋に丸を加えて用いた)が全国に広まったのは、嫡流の子孫や縁者が、多く全国に移住した証でもあります。豊田武光が後醍醐天皇から賜った「並び鷹の羽」紋は歴史も浅く、子孫も少ないので現在も少数です。真実は、いくつもの史実を重ね合わせれば、隠していても自然に見えてきます。菊池武重は、1338年の暮れに歴史からその姿を消し、東国に移住、その後は、二度と歴史上に登場することはなかったのです。菊池家譜で庶流は、武重の存在に終止符を打ちたかったのでしょう。庶流家にとっては、嫡流家がこの世に存在しない方が、都合が良かったのです。しかし、菊池嫡流家の血脈は、まだこの世に続いています。
(但し、細々とではありますが、、、。)


一、菊池武重の銘
曾祖母の兄菊池定介が、日清戦争で戦死した折、国家より贈られたと言う定介の石碑には、「、、、、菊池武重一家をあげて南朝に殉ず、菊池定介はその裔なり云々、、、」
と記され、武重の銘が記されています。我が菊池家の由緒について、国家や菊池家以外の人々が、「菊池武重の子孫である。」と、認め、それを石碑に残したことは、国家や他人が菊池家にお墨付きを与えたこと、わが菊池家にとって大変に有り難いことです。
下は碑文拓本(近衛歩兵上等兵菊池定介墓誌)

近衛歩兵上等兵菊池定介墓誌

昔、国家のために命を捧げた菊池武重という者があった。菊池武重は、一家を挙げて南朝に命を尽くした立派な人と云われている。それから長い年月が過ぎ、常陸の国久慈郡旧諸沢村の菊池歩兵は、その菊池武重の子孫として生まれ、身分を兵隊として国家のために命を捧げる信念に燃えた。君の名は定介、父は縫衛門、母は菊池氏の娘加津、明治五年九月二十六日生まれ。日清戦争のため近衛歩兵上等兵として第一軍に属し、出征に適したあなたは心おきなくこの役に尽くした。日本国の大事としてのんびりと過ごしているわけではなく、一刻も早く出発したのである。すでに船上の人となって、中国の野心を革めるべく志をたてたが、志半ばで明治二十八年四月十八日、無念にも中国柳樹村にて戦死された。(享年二十三歳)ああ、すでに従軍におもむき、敵とはまだ立ち及ばずに死したこと、何と不幸なことであろうか、しかし、また云うべくには、自ら死(病死)をもって家風を辱めないその気風に、村人たちは悲しみながら、その不幸に厚情をよせ遺骨を先祖の墓に納めたのである。それは、同年八月一日のことであった。茨城県徴兵慰労議会より金十円、久慈郡軍人家族保護会よりまた五円と慰労、水戸旧藩主徳川公より戦死した将士として、その冥福を祈るべく金幣一郷の栄誉を賜った。翌年、陸軍省より追賞があり、その従軍の手柄に報いるために、弔慰金百五十円を特命代金として国債をもって澄まし、永らくその恩功を称えた。ああ、君の名を永遠に忘れないように垂れたもうたのだ。今ここに、その父縫衛門が記念碑を建てたいと請われ、私は文才もなく軍人でもないがこの立派な功績のあらましについての役目を全うしたい。

豹は死んでその皮を残す、菊は萎えて尚その香あり
君はその姓に恥じることなく 身は没しても名誉あるその名を残した。

また、さらに名誉あることには陸軍省より追賞を受け、その栄誉はますます高揚誉に達しその栄達明らかに感じられ、もって御霊を弔うばかりである。

明治三十年二月毅旦

                 水戸    手塚恵進撰

                 土浦 霞外 廣田 晋書

二、天道塚
菊池家は、武重の建立した聖護寺大智禅師の教えを受け、天道の精神に共鳴した武重の弟たちも天道精神について多くの書を残しています。その天道精神を表すものとしてなのかどうかは知る由もありませんが、菊池家に関係する塚と言うことは確かであろうと考えています。菊池家北側の菊池家所有の山上に位置し、天道塚と呼ばれ、今から40年位前まではいろいろな伝統行事が行われていました。しかし、現在は、樹木が繁茂して手入れもされずに荒れています。塚には、明和四年三月大吉日、「大結衆」(石塔の中央には、梵字、その下に塔姿と刻んであります。)の小さな石塔が建っています。
石塔が建てられたのは明和四年ですが、天道塚はそれよりもずっと古く、約六百七十年以上も前に造られたのだと思います。その根拠は、菊池家の天道の精神が歴史の中に残っているのは武重の時代であり、武重がわが祖先であると伝承されているからです。

三、公爵一條実孝公の「忠誠」の書
元総理大臣林銑十郎閣下と共に、菊池家を訪れた公爵一条実孝公は、私の祖父光夫の求めに応じ、菊池家の祖先に敬意を表す「忠誠」と揮毫したそうです。
(二人は、菊池家の仏壇に香を点し菊池家の朝家に対する忠誠を称えたようです。)


四、四畳の間
切腹の間と呼ばれ、菊池家の厳しい正道精神に対する考え方と、菊池家の武士道の精神を表わしています。


五、「佐竹氏紋」、「那珂氏紋」入りの酒杯
佐竹貞義公は菊池武重と年代的にも重なりますので、この杯は佐竹貞義公が那珂氏を滅ぼした時の戦勝祝いの杯と思われます。戦国時代には、戦で滅ぼした相手の家紋を取り上げて自分の家紋にすることがありましたので、製造年代はわかりませんが、約六百数十年も前の史実に関するものだと思います。この杯の「蔦紋」は、その時代(年代)を表し、現在のような形の「蔦紋」ではありませんが、蔦紋以外には考えられず、戦勝祝いの席で佐竹氏より賜った杯だろうと思います。



六、熊野十二所神社
熊野神社とは、古代からの菊池家の氏神社(祖先神を祀る社)ではないかと考えています。「球磨国の氏神、すなわち球磨の神社は熊野神社となり、球磨国の者が全国各地に移住するとともに熊野神社も全国に広まったものと考えています。」
我が家の伝承によると、大雨によって大洪水になり上流から流れ着いたお札が、
陣所の淵に流れ着いたので、わが祖先は陣所に元々祀られていた熊野神社の下にそのお札を祀り、それが十二所神社となったと伝えられています。

(当時は、熊野神社も十二所神社も同じ神様をお祀りしている神社であることが、
分からなかったのかもしれません。)

七、圷の川端
菊池家の古いお墓のあったところで、多くの無縁の遺骨があったのではないかと考えています。その後、元禄時代になってから菊池家だけのお墓を他の場所に移しました。

八、鎮守面(ちんじゅめん)
神社のお祭り用の米を栽培するための水田でした。古くは、御田植祭、収穫祭をしたものと思われます。

九、千手観音は、昔の氏寺輪足山東福寺の本尊
我が家の仏壇の鋳鉄製の小さな千手観音菩薩の由来を調べた結果、千手観音菩薩は菊池武重の時代までの菊池家の氏寺輪足山東福寺の本尊であるということが判明いたしました。菊池家にとっては、初代則隆の時代から大変に縁の深い氏寺のご本尊様ということになります。仏壇に永い間安置され、誰も気に留めずいたので、いつの時代に製造されたものでどのようなものなのか?なぜ我が家にあるのか?今まで全く知る由もありませんでした。しかし、菊池嫡流家の証となることに変わりはなく大切な宝物です。お顔の彫は、長い年月の間に薄れていますが、私の調べたところ天平から平安時代に創られた仏像の特徴を持っています。



十、白銅鏡
鶴と亀が刻まれ製造年代は室町時代後期と推測されますが、武重の持っていたものか、または、その後祭祀に使用していたものかも知れません。私が、金属用の洗剤で煤などの古い汚れきれいに落してしまいましたので、新しく見えますが、儀式用の紐を通す穴が中央にあいていて非常に古いものだと思います。


十一、正月飾りの家例
紅白の鏡餅、紅白ののし餅、四方拝
昔から、正月には「紅白の鏡餅」と「紅白ののし餅」を神棚と神社に供え、
当主が四方拝をしていたそうです。この地方には、紅白の鏡餅を供える家は、全くありませんがなぜ紅白なのかを調べたところ、昔の大名家や皇室では、正月に紅白の鏡餅を神前に供えるならわしがあったそうです。


十二、「白い色を忌み嫌う」と、言う家訓の伝承
我が家では、大昔、白馬を飼っていた時大火に合い大きな被害があったと伝えられています。この伝承は、源平合戦で平家について源氏と戦い、壇ノ浦の戦いで平家は滅亡し、菊池家も壇ノ浦で多くの犠牲者を出しています。以後、菊池家は源氏の白い旗を忌み嫌い(縁起の良くない色と考え)、白い色の生き物(家畜や犬、猫など)の飼育や白い色の花の栽培を禁じたのだろうと考えています。家訓として今でも、白い花を仏壇に飾りませんし、白い色の動物は飼いません。

十三、竜華樹模様の帯戸金具
菊池武重の定めた「内談衆のこと」の最後に書かれた「竜華の暁に及ばんことを念願すべし、、、、」の、華樹の模様を帯戸の取っ手金具に彫って、毎朝、帯戸を開けるたびにその思いをかみしめたたものと思われます。


十四、ギヤマンの皿
古くから我が家に伝わり、ギヤマンとよばれ大切に受け継がれてきました。いつの時代のものかわかりませんが、皿のふちどりは手作業で加工したようで、良く見ると不揃いに曲げられています。底の中央部が高くなっているので、固いものの上に置くと皿が傾いてしまいます。柔らかなものの上に置くことで安定しますから、小さな布団のよなものの上に置いて大切に使用されていたのかも知れません。このようなことから、加工技術が発達していない時代に製造されたものだろうと思います。



菊池家のお正月
「お正月には、神棚に紅白の鏡餅とのし餅を飾ります。」
床の間にも、武具のほかに紅白の鏡餅とのし餅を飾ります。昔から紅白の鏡餅と紅白の伸餅を神棚と床の間に飾ります。紅の色は、あずきで色をつけるので、薄紅色の鏡餅です。中央に大きな鏡餅、四隅に小さな鏡餅を配します。そして、その上に白の鏡餅、その上に紅の鏡餅をおきます。(紅白の伸餅は、折敷一枚分の伸餅を上が紅、白を下に折敷に重ねて置き、みかんや柿、糸昆布、裏白、松の穂先と共に飾ります。)代々、(みかん)ニコニコと仲良く(串柿が二個と二個)細く長く喜こんで暮らし、(糸こんぶ)表裏のない正直な心で(裏まで白い裏白)新年を待つ(松)という様な意味があると伝えられています。このように神棚と床の間に、紅白の鏡餅と伸餅を供える正月の伝統行事を、今も続けています。この地域では、我が家だけが紅白の鏡餅や伸餅を供えているようです。他の家々は、白い鏡餅だけを飾っているようです。私の幼少時には、紅白の鏡餅が普通の正月の家庭の風習であると思っていましたが、我が家だけのやり方であるとわかってからは、特に祖先への思いに強い好奇心を掻き立てられました。しかし、なにも究明できるすべもなく、最近までそのままにしていました。しかし、一念発起をした処、幸いなことに、多くの歴史的事実との整合性を見出すことができました。
今も古い時代の紅白の餅のつき方を、そのままに続けています(餅つき機を使いますが、)。紅の餅は、小豆を餅に搗きこんで紅の色に染めています。このような鏡餅のつき方は、他に聞いたことがありません。石川県の金沢地方では、紅白の鏡餅を飾るようですが食紅で色付けをしているようです。我が家の鏡餅は食紅などを使う前からの、古い時代の慣習であろうと思います。宮中や大名家では、昔から紅白の鏡餅を飾っていたようですから、菊池家が、一国一城の主であったことの証明となるものでもあります。菊池家の伝統として、これからも伝えたいとおもいます。
下は、床の間に飾った「のし餅と鏡餅」


(床の間に、紅白の鏡餅とのし餅を飾りました。本来、鏡餅とのし餅は別々に華去るのですが、今年の床の間には、のし餅の上に鏡餅を重ねて飾りました。紅餅の色は、代々、餅にあずきを搗き込んで色付けをしていましたので、今も同じようにしています。このため、紅白と言ってもあずき色の紅餅です。)

(上は、神棚の鏡餅とのし餅)
神棚の前に恵方棚を設け、正月飾りをしています。
基本は、紅白の鏡餅、紅白ののし餅、鯛のお供えです。
神棚には、祖先の神様(氏神様)をお祀りしていますので、代々、お正月の行事として続けてまいりました。
最近は、お正月を「外国旅行」で、と言う方が多くなりましたが、そのようなお正月の過ごし方は、当家では考えられません。お正月の準備などを考えれば、外国旅行に行った方が気楽で良いのかも知れませんが、
祖先の神様を蔑にすることはできません。

鏡餅と伸餅の飾り方と四方拝
12月28日に鏡餅を飾りますが、折敷の中央に大きい紅白の鏡餅を置き、四隅に小さい紅白の鏡餅を配します。これは、四方拝のためで、四隅に配する小さな紅白の鏡餅は、四方の神々へのお供えではないかと考えています。伸餅も、上に紅の餅を折敷一枚分、下に白の餅を折敷一枚分を折敷に重ねて飾ります。両方とも裏白や串の干し柿、だいだい、昆布なども一緒に飾ります。以前は、氏神社へも紅白の小さな鏡餅を飾り門松も立てましたが、今では、神社の鍵取り主を辞め氏子も辞めましたので、神棚の氏神様にお供えをしています。

団子汁
伝統の料理、と言っても、、、あまりありませんが、、、、。
私にとって、我が家の団子汁(ドジョウ切り)は絶品です。


寒い日には、特に体が温まりますので、我が家の伝統食、団子汁(ドジョウ切り)は、
私の大好物の一品です。これは、本来、正月料理ではありませんが、特に伝統を残すために私が正月料理としたものです。しかし、昔はこのような食べ物は、一般の人々が口にするようなものではなく、晴れの日の食べ物であったのかも知れませんが、、、。
この日は、野菜、茸類、鶏肉の具でしたが、お好みでなんでも入れられます。
小麦粉を固めに練り手で細長くのばすか、または、その小麦粉を薄く延ばして断面が
1cm角、長さを10から15cm位に切れば、太いうどんのようなものになります。
それを具材と共に煮込めば完成です。
我が家ではもちろん、客人にも評判が良いものです。

正月料理
わが家は栄枯盛衰の歴史の中で、かろうじて代を継いでまいりました。このため、正月の伝統といえるような大名家の豪華な料理もほとんど伝わりませんでした。正月三ヶ日は、朝はお雑煮となっていますが、味噌田楽(豆腐、こんにゃく)や芋串(サツマイモやさと芋などに味噌を塗って焼いたもの)も昔から正月の料理となっています。我がで、昔から食べていた小麦粉のうどんを太くしたような、どじょう切り(団子汁とも呼んでいた)も我が家の伝統を残すために正月料理に加えました。宮崎県のだごじるのような食べ物ですから、わが祖先伝来のものだろうと考えています。このどじょう切りは、我が家で以前から食卓に上っていたものですから、特に珍しいとは思っていませんでしたが、どうも我が家だけの食べ方でもあるらしいのです。妻も我が家に嫁いで来てから、初めてこれを食したらしく、我が家以外ではこのような食べ方をしていないらしいのです。また、正月には馬刺しも食べますがこれは、最近になって始めた正月料理といってもよいでしょう。昔は、生の肉を食する文化はなかったと思います。現代人とって、おせち料理はあまりおいしい食べ物ではなくなりましたので、最近は忙しいので家では特につくりません。数の子、田作り、松前漬け、などはスーパーのものでも充分間に合います。特に食べたいものがあれば、正月前にそろえます。
正月の飾り付け
12月28日には、門松を小さい松の枝に輪飾りで済ませ、神棚の注連縄を替え松の穂先を供え、榊を替えて水、米、塩、お酒、を神前に備え、床の間には、甲冑、お刀や槍などと共に紅白の鏡餅、紅白の伸餅、生花を飾ります。青竹に笹を残した箒で家の煤払いをして、神棚や仏壇もきれいにしてお正月を待つのです。

(お正月三が日の行事)
元旦
お正月の最初の行事は、「若水取り」で初まります。当主が体を清めてから、井戸(今は衛生的な水道水ですが)から若水を汲んで神棚に若水を供えてお参りをします。仏壇とお釜様には、若水で入れたお茶と食事を供えてお参りをします。祖父の時代は、庭に出て四方の神々に菊池家と一族の安寧、五穀豊穣を祈願する、四方拝をしていたそうですが今はしていません。その後、家族全員で新年の挨拶を済ませ、おとそをいただき御節やお雑煮、田楽などを頂きます。初詣は、氏神社に行き、紅白の鏡餅、お賽銭、お米を半紙に載せて供え、新年の祈願をしていました。しかし、今は神棚の氏神様に同じ事をしています。

二日
神棚や仏壇へのお参りは、元旦と同じです。この日からは、親類縁者などの客人があれば、接待もしなければなりません。しかし、近年は叔父叔母は高齢になり、「暖かな季節になって行けるときには行きます。」との電話を頂くことが多くなりました。また、兄弟も仕事や家庭の事情でなかなか正月に顔会わせることも少なく、我が子も二女などは仕事で忙しく、正月などと言ってはいられません。長男は年末には帰省し、長女は元旦に里帰りしますが、現代社会は生きるのに忙しく、家の伝統や伝承されるべき独特の家の伝統や家例などが、継承できずに消えていくのは寂しい限りです。二日目の食事は、おとそを頂き、お雑煮と御節で済ませますが、この日の夕食は、私が伝統食として加えた「どじょう切り」を頂き、祖先を偲び我が家の伝承や伝統を話します。次代を継ぐ長男には、特に後世に伝えて欲しいとの思いもあります。家族には、いつも「同じ事を言っている。」と、嫌がられていますが、これが私の役目であろうかと思います。

三日
二日と同様にしてすごしますが、夕食は今では家族のお好みで意見を集約して決定します。今では、お正月の三が日を過ぎれば、正月気分も徐々に薄らいでいきます。昔は、正月は長く休み、いろいろな行事をしていましたが、今の忙しい世の中では、それをすべて継承することは不可能です。現代の仕事始めは四日となっているようですから、会社が休みの間が正月なのかもしれません。

桃のご節句
三月三日
女子のひな祭りで、ひな壇を飾ります。
ほんのり桜の香りの桜餅もおいしかったです。
氏神様の御祭
三月十二日
我が家では、氏神様の御祭を毎年三月十二日に行います。
今では、お札を頂いて家族だけでこの御祭をしています。
以前は、旧の三月十二日に御祭をしていましたが、最近はわかりやすくて良いので
新の三月十二日に御祭をしています。
旧の三月十二日と言えば、菊池武重が袖ケ浦の別れで惣領として、菊池家を率いていくように父武時に諭され肥後にかえる日です。
菊池武重の子孫として意味のある御祭であろうと思います。
端午のご節句
五月五日
男子のご節句、昔は錦絵や菖蒲を飾り、鯉のぼりをあげました。柏餅を思い出します。

お盆
八月十三日
お盆は、昔は旧暦で行いましたが、現在は月遅れの8月13日から3が日がお盆となっています。8月13日以前に、お仏壇の位牌を床の間に移動して盆だなを作ります。8月13日の夕方、ご先祖様をお迎えにお墓に行きお墓の灯篭にろうそくの火を灯します。迎え火をたき、盆棚にご先祖様がお着きになります。盆棚に、お食事を供えてお灯明とお線香を灯します。無縁のお仏様にも、お食事を用意いたします。(盆棚の下に)
14日
盆棚にお食事を供え、お墓におまいりに行きます。夕方になると、灯篭にろうそくの火を灯します。
15日
前日と同じに、盆棚にお食事を供え、お墓におまいりに行きます。夕方になると、灯篭にろうそくの火を灯します。
16日
ご先祖様は、3ヶ日を過ごすと、16日にはお帰りになります。送り火をたいてお土産(カラムシの葉にナスのみじん切りと米を包んだものや団子)を持たせてお帰りいただきます。と、言っても、盆棚に供えた果物や野菜、きゅうりやナスで作った馬などをまこもに包んでお土産と一緒に川に流します。これで、ご先祖様はお帰りになったとされます。(菊池家の古い墓碑、元禄年間の石碑は風化して崩れ、文字は一部しか読み取れません。
墓地の改修工事が完了しました。


菊池家は、山に囲まれ、周囲が渓谷となっている天然の要塞でした。


我が菊池家は、古くより常陸国久慈郡諸沢村に居を構え、菊池武重の子孫と伝承してきました。菊池家の墓石は、元禄年間のものが一番古く、それ以前は墓地がどこにあったのか、いつの時代この地に来たのか、系図や古文書類もすでになく不明です。ただ、家に残る床の間は四畳、四(死)の間となっていて、切腹の間と伝えられています。
切腹の間

菊池家は、十三代惣領武重の時に庶流の豊田十郎武光の力が強まり、武重は惣領の座から下ろされ嫡流家の武士が家督を継いだのもつかの間、まもなく武士も武光によって惣領の座から引きずり下ろされました。庶子家の武光が家督を継ぎ、嫡流家の嫡子の呼び名である次郎をつけて、菊池次郎武光と改名し、菊池家嫡流の嫡子であるがごとく名乗りました。このため、嫡流家の嫡子である武重及び子孫は九州から逃れ、東国、常陸のこの地に生きる場所を見つけてこの地に潜み、いざとなれば四畳の間で腹を切る覚悟であったのだろうと考えます。戦国の世はまさに下克上の世で、天皇家は二分され南北朝となり、武家集団は、棟梁の座を虎視眈々と伺い、身内でも命をかけた争いは日常茶飯であり、今日の敵は明日の味方となり、寝返りもいとわず政情の混乱に収拾のつかない時代でもありました。この時代は、兄弟であっても親子であっても対立は命の危険と隣り合わせでした。武重は、歓喜院にこもって僧として暮らしたと伝えられていますが、
時代錯誤もはなはだしいと思います。現在のような政治状況であれば、そのようなことも可能であろうと考えられますが、命のやり取りをしている戦国の時代では、悠々自適の楽隠居は通用しないと思います。我が家に残る佐竹氏の家紋入り盃には、「丸に蔦」紋らしき紋が並んで描かれているので佐竹貞義公が那珂氏を滅ぼした後に創った盃であろうと思います。その後、武重が常陸の国に入ってから、佐竹氏より武重に贈られた盃であろうと思っています。戦国の大名は他国との戦によって相手を滅ぼすと、相手の家紋を取り上げて自分の家紋に加えたそうです。また、那珂氏の家紋は、元々は丸に蔦紋であったようです。佐竹氏は武重が関東遠征の折に知己を得た武将であろうかと考えています。では、なぜ、南朝方の武重が、北朝方の佐竹氏と繋がっていたのか不思議ですが、武重は、豊田武光及び阿蘇家家臣団によって菊池家惣領を解任されたような状態ですから、反勢力である北朝の武将と結びつく可能性はあったのかもしれません。
武重は九州の肥後を逃亡するように出て、佐竹氏を頼り常陸の国に住するようになったのだと思います。菊池家に残る「切腹の間」は、武重の心を代々受け継ぐ子孫によって継がれてきたもので、その心情を思うと壮絶な思いが伝わります。しかし、武重の行動はとうてい公にできるものではなく、歴史の中に隠蔽されていたのであろうと考えます。菊池家は、以後、佐竹氏に庇護されて帰農したのではないかと思います。佐竹氏より賜ったと伝わる漆塗りの酒盃。

(右は扇に月丸、左は丸に蔦紋)
670年も前のことなので、想像でつじつまを合わせるしかできません。いずれにせよ、佐竹氏の庇護を受けてこの地に居住したことは紛れもない事実であろうと思われます。地名の間坂(馬坂、真坂、間坂と変化した)は、佐竹氏の初代の居城である馬坂城と同名でもあるので、佐竹氏からこの地を拝領したと考えられます。このようなことから、佐竹貞義公の時代にこの地に移り住んだのであろうと考えています。私の想像する菊池一族は、南朝に寄り添い進んで行く大きな船のような一族でした。嫡流の兄弟同士が斬り合い、あるときは助け合い、庶流は他家の力も借りて虎視眈々と家督を狙い、あるときは助け、同族も他家も遠慮なくその渦に巻き込み、その船長の座'(菊池の家督)を得ようと必死でした。戦いに敗れたものは、肥後を追われ歴史の表舞台から意図的に消されて行きました。しかし、この大きな船は南朝に寄り添って、歩みをただの一度も止めず、いささかの揺るぎもしませんでした。菊池一族は、愚直に忠誠を貫いた類まれな一族と言っても良いでしょう。なぜ、嫡流から庶流、庶流から他家へと血脈がうせてまでも、忠誠一筋に生きなければならなかったのか、子孫として誇りに思うと同時に大きな疑問も残ります。明治の儒学者元田永孚氏(もとだ ながざね)は、菊池一族は日本一の忠臣であると明治天皇に進言したと伝えられています。
そのことに起因するかどうか定かではありませんが、菊池神社は、明治天皇の命令で建立されました。

武門の末裔としての祖父(市太郎、後に光夫と改名


射撃で優等賞

        
(為我流師範)下                   (為我流免許皆伝)下


祖父の国家への忠誠心は、我が家の名馬を軍に供出したり、我が家の刀剣類のすべてと古銭や蚊帳の吊り具まで、ありとあらゆる金属類を国家のために捧げました。馬を供出した時は国家より賞状や報奨金を賜り、賞状は紛失したのかどうか見当たりませんが、
報奨金で買ったと言う時計は現在でも残っています。軍が兵器類を製造するために、金属類を徴収した時には、我が家に残っていた刀剣類、刀、槍などを庭に出して山のように積み重ね、古銭類もすべてを(天保銭などは、小さな俵のようなものに三俵あった)、
国家のために供出したと言われています。今、我が家には何も残っていませんが、「忠誠の菊池一族」の遺伝子だけは絶えることなく子孫に受け継がれています。

勅語

(我が家に残る昭和天皇の勅語)
昭和初期には、多くの著名人が、我が家を訪れています。

菊池家の氏神社(十二所神社)熊野社

(神棚の十二所大権現様)

古くは十二社神宮と呼ばれていた時代もありました。私が氏子や鍵取り主を辞してからは、我が家だけでの御祭りとなりましたので、お札は十二社神宮のものを頂いています。

(菊池家氏神社) 十二所神社の御祭り

例祭
昔は、旧の3月12日(父上の武時より武重が惣領を命じられた日)に春季例祭を、
旧の10月12日に秋季例祭を行っていましたが、
現在はわかりやすく月遅れの4月12日と11月12日に、それぞれ行うようになりました。
この神社は、陣所とも呼ばれ菊池家の建立した神社で、菊池家の所有でした。
後に村社となり、土地も神社に寄進したと伝えられています。
下は金砂山大祭礼の行列です


<金砂山の大祭礼と菊池家>
    1 使者が太刀持ち2名を従えてお迎えに 2. お迎えが菊池家の縁先に到着  


4.それでは宜しくお願いいたします       3.当主は上座で使者の申し出を聞く


   5. 使者の後について神社へ    6.花纏、笛、太鼓を中心に行列をつくり進む


 7.十二所神社に到着           8.当主が先頭になり神社の階段を上る 


9.神社拝殿にて五穀豊穣と民の安寧を祈願
本来、当主一人で拝殿に上がり、誰にも参拝の作法を見せずに祈願をする。
当主のみに伝承されるこの作法は、一子相伝の参拝とされている


10.一番上の拝殿には菊池家当主以外は上がれないので、当主が参拝しているときは、氏子は、全員が下段にて祈願の終了を待っている。


(これは、私の若き日の写真で昭和後期のもの)

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