肥後菊池家十三代惣領 菊池次郎武重末裔のHPです。



菊池一族FAQ
あなたの知りたい菊池一族への疑問と答えをまとめてみました。
菊池家の起源を教えてください。

菊池家は、鞠智城に連なる豪族の末裔とされ、1019年(寛仁3年)の「刀伊の入冠」に際し、大宰府権師藤原隆家と共に奮戦した大宰府官藤原蔵規(政則)の子藤原則隆が、肥後の菊池郡に居を構えたのがはじまりです。

菊池家の氏神様は何ですか?

菊池家の元々の氏神様は、熊野十二所大権現であろうと思います。
熊野(球磨)の祖先を神と崇めて祀ったのが熊野神社であり、その第一の神様本地仏は千手観音菩薩となっているからです。
千手観音菩薩は、菊池家との縁が深く鞠智城跡からも出土していますし、肥後菊池家の氏寺輪足山東福寺の本尊やわが菊池家の仏壇の本尊としても古くから親しまれている仏像です。
また、現在、わが菊池家でも十二所神社を氏神として祀っています。
六代隆直のころからは、阿蘇神社の氏子として阿蘇家と密接な関係を保っていましたが、阿蘇家と敵対するに及んでは、阿蘇神社から離れるのが自然であったと考えています。

菊池家十三代惣領菊池武重の消息は?

菊池軍記では
「武重の死去年月日は不明なり」と伝わっています。
(延元三年(1338年10月)築後侵攻したがその後の消息は、不明となっている。)
菊池家譜では
菊池家譜では、42歳(正慶2年3月13日博多で討死、とある。この説では、1292年生 - 1333年没となります。しかし、この没年(正慶2年)は父・武時のものかもしれないし、出生年も定かではありません。法名は言盆真空寂阿大居士となっていますが?
(しかし、法名の言盆真空寂阿大居士は、父武時の法名です。菊池家が武重の消息をつかめないのですから、菊池家内の対立は、よほどすさまじく、混乱の極みであったことがうかがえます。菊池家の歴史は、このようなわけですから正確に伝わっていることばかりではありません。)
延元三年死去説では
武重は、病を得て延元三年の暮れごろに死去したとなっていますが?
(この説は、このころから武重の消息が不明になったため、このように流布されたのだと思います。)
興国三年八月三日死去説では
武重は家督を武士に譲った後剃髪し、歓喜居士と称し、輪足村内の東福寺歓喜院に居住して仏道の修行をした後に、興国三年八月三日に死去したと伝わっています。
東福寺の近くに「菊池肥後守武重朝臣之墓」がありますが、文化十三年に、住職が石碑を建立)ここは、かつて東福寺の一部で、歓喜院と言いました。武重は家督を武士に譲った後剃髪し、歓喜居士と称し、ここで仏道の修行をした後に死去したと言われていますが?
(上記のような理由で、文化十三年に東福寺の時の住職が武重のお墓を建立したと伝わっています。
しかし、なぜ、武重は恩師である大智禅師のために建立した聖護寺で、恩師と共に仏道の修行をしなかったのでしょうか?聖護寺で武重が修行した形跡もありません。兄弟が命を賭けてしのぎを削る戦国の世に、仏道の修行とは、何とも浮世離れした考えです。それは平和ボケした時代の感覚でしょう。この時代に、武重が仏道の修行をすることは全く考えられませんので、これも後世の平和な時代になってからの捏造であろうと考えています。)
わが菊池家の石碑には
曾祖父の兄が、日清戦争で戦死した時に国家より贈られた石碑の碑文には、
「菊池武重一家を挙げて南朝に殉ずる」「菊池定介は、その裔なり」と書かれているので、
いつ頃に死去したのかは、全く不明ですが、、、、私は、東国に来てから死去したのだろうと考えています。だとすれば、「天道塚」が武重の墓なのかも知れないとも考えています。
(現在まで、常陸国に武重の子孫が存在するのですから、武重は常陸国に来て死去したのかも知れません。)



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肥後菊池家の血脈は、永遠に不滅です。